柳の渡し・青根ヶ峰
2022年(令和4年)7月25日

メ モ
近畿地方は先月の14日に梅雨入りしたにもかかわらず、その後6月下旬は暑い晴れの日が続き、早くも28日には梅雨明け宣言が出された。しかし、皮肉にも7月に入ってからは全国的に不安定な天気となり、山歩きには適さない蒸し暑い梅雨のような空模様が続いた。
20日を過ぎるとようやく晴れの予報も出て夏山シーズンも近いかなと思っていたところ、今度は新型コロナの陽性者が急増し始めて、連日これまでの記録を更新する有様だった。そうなると遠くの泊りがけ山行も憚られてしまい、近場の大峰や大台方面の山行を考えるしかなくなってしまった。
大峰や大台方面にはまだまだ行きたいところは多い。その中で、大峯奥駈道の北部で未踏の吉野から山上ヶ岳を数回の日帰り山行で繋くことをこの機会に実行に移すことにしました。まず最初は、”柳の渡し”から”青根ヶ峰”までを目標とし、出来ればその先行けるところまでを25日に決行することとした。真夏の暑い中での低山歩きなので出来るだけ朝早く出発できるように行程を考えた結果、大和上市駅の近くに車を止めて始発の電車で六田駅まで行き、そこを出発点とすることにしました。
前日の夜は早めに寝て、当日の早朝3時に起床。支度をして家を出発したのは午前3時40分。橿原まで高速を走り、その後国道169号で大和上市駅に着いたのは午前4時55分だった。あまり食欲はなかったので朝食はあとで取ることにして、靴を履き替え、リュックに荷物を詰めて駅に向かった。六田方面への始発の電車は5時16分で六田駅着は5時19分だった。六田駅から大峯奥駈道の起(終)点の”柳の渡し”目指して国道169号を東に向かいました。


行 程

六田駅

柳の宿(第75靡)

丈六平(第74靡)

        ↓  吉野山駅
     ↓   ↑
金峯山寺(第73靡)
↓↑
吉野水分神社(第72靡)
↓↑
金峯神社(第71靡)
   ↓   ↑
     ↓  西行庵
   ↓   ↑
愛染の宿(第70靡)
↓↑
青根ヶ峰

距離     : 20.7km
最大標高差:  704m
累積標高  :  895m
    




 
天 候

晴れ

 (日本気象協会tenki.jp : 過去天気)

山行記録

午前5時過ぎの大和上市駅。早朝のことでひっそりとしている。
吉野方面から来た5時16分発の電車に乗ります。

次の六田駅には5時19分着。
ここから国道169号に沿って”柳の渡し”に向かう。

午前5時半過ぎに”柳の渡し”に着きました。大峯奥駈道の起(終)点です。
柳はかなり年季が入っているようで、鉄パイプで支えられています。
葉が茂っていて全容が分かりにくい。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

小さな石像が祀られている。不動明王かな。

大きな石灯篭。
”右よしの”と刻まれているが方向が違うのでは?
かつて”柳の渡し”はもう少し上流側にあったものを、道路の拡幅に合わせて現在の位置に移設されたらしいが、
その際に正面の向きも変わったのだろうか。

”柳の渡し”から見た吉野川と美吉野橋。
大正8年(1919年)に美吉野橋が架けられたことにより、”渡し”はその使命を終えました。

美吉野橋を渡って六田の集落へ。

橋の上から吉野川の上流方面を見る。
遠くにうっすらと見える鋭鋒は高見山と思われます。

 
橋を渡ったところにも”柳の渡し”の名残りがあります。
こちらには役行者像が祀られています。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

 
橋を渡って左に折れてしばらく進んで行き、
左曽川を渡ったところで右に行くと左手に一之坂が見えてきました。

奥駈道の最初の坂なので一之坂です。

急坂をしばらく登って行くと右に”柳の宿”(一之坂行者堂)がありました。
現在はもう少し先の方に移されています。

一之坂を登り終えて車道に出て左に登って行くと、見晴らしの良い開けたところに行者堂が建っていました。
お堂には役行者と前鬼・後鬼夫妻が祀られています。ここが第75靡”柳の宿”です。
(画像をクリックすると説明板が表示されます)

行者堂から一之坂の分岐点に戻って、奥駈道と思われる細い道を進んで行きます。

一登りすると墓地があり、さらに進んで行くと薄暗い少し荒れた道となります。

やがて小石が敷き詰められた広い道に出ました。
左を見ると鳥居があります。吉野神宮の一ノ鳥居のようです。
どうやらここは吉野神宮の参道のようです。


右に参道を進んで行きます。

吉野神宮に着きました。

後醍醐天皇が祀られています。

午前6時20分着。
早朝のことで人の気配は全くありませんでした。
参拝してから目的のものを探します。

境内を行ったり来たりして探したが分からない。
仕方なくスマホで調べると、それは駐車場の中にありました。第74靡”丈六山”です。
山が平となっているがここに違いないでしょう。
昔はここに勝福寺という修験寺院があり、身の丈一丈六尺の蔵王権現を祀っていたそうです。

案内図です。
右端の矢印が参道に出たところ、駐車場の中の☆印が丈六平です。

吉野神宮をあとにして車道を進んで行くこと15分ほどで”峰の薬師堂”跡に着きました。
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峰の薬師堂”跡のすぐそばには村上義光公のお墓がありました。
護良親王の身代わりとなって自刃した武将です。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

甲冑が供えられています。
護良親王の甲冑を身に着けて身代わりとなったことに因んだのでしょうか。

午前7時に下千本駐車場に着きました。
今日は本当にいい天気過ぎてこれから日差しが強くなり暑くなるのが心配です。
既に汗びっしょりですが・・・。

駐車場の東屋のような休憩所で朝食(と言ってもおにぎり一つですが)を取って休憩します。
桜の時期には賑わうところも今は人の影さえ見えません。

下千本駐車場から10分ほど歩いて行くと赤い高欄の橋が見えてきました。
鎌倉末期に激戦があったと言われる大橋です。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)
 
 
黒門。金峯山寺の総門です。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

 
黒門から少しで”銅の鳥居”。
正式には発心門で、山上ヶ岳までの間にある四つの門のうちの最初の門。
ここから弥陀の浄土に入って行くことになるらしい。
東大寺の大仏を鋳造した余りの銅で建造されたという伝承があるが、
現在のものは室町時代に再建されたものだそうです。

発心門の傍にある行者堂。
やはり役行者と前鬼・後鬼が祀られている。

 
仁王門が見えてきましたが、あいにく修理中です。

仁王門は通れないので左側に回り込んで蔵王堂前に来ました。午前7時半です。
先ほどの発心門やこの蔵王堂などを含めた一帯が第73靡”吉野山”らしい。
相変わらず人の気配がありません。

蔵王堂の傍らには観音堂やこの愛染堂、威徳天満宮などが並んでいます。
愛染堂に祀られている愛染明王像や蔵王堂の蔵王権現立像などは、
かつて奥千本にあった安禅寺に祀られていたものだそうです。
(マウスポインターを画像に重ねると愛染明王像が拡大されます)

蔵王堂の対面には二天門跡があります。
先ほどの村上義光が護良親王の身代わりとなって壮烈な最期を遂げたところです。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

金峯山寺をあとにして先に進みます。

時刻は午前7時45分。通りはまだ深閑としています。
右の白壁は東南院。大峯山寺の護持院の一つです。

金峯山寺から5分ほどで勝手神社です。
創建時期は紀元前に遡ると言われるが詳細は不明
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

 
石段を昇って行くと境内に出ます。
ここは義経と別れた静御前が追手に捕えられ、請われて舞いを舞ったと言われるところです。
社殿は平成13年(2001年)に焼失してしまい、現在再建のため寄付が募られています。


勝手神社の付近には多くの寺社が立ち並んでいる。
これは喜蔵院。
平安時代初期の創建とされる。山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の一つ。

櫻本坊。
創建は天武天皇の時代(673年)とされる。大峯山寺の護持院の一つ。

 
竹林院。
聖徳太子の創建と言われる。大峯山寺の護持院の一つ。
大峯山寺の五つの護持院のうち四つまでがこの付近に集中しています。(あとの一つは洞川の龍泉寺)

 
さらに進んで行くと分岐に出ました。時刻は午前8時です。
奥千本までのバスの停留所がありますが今日は平日なので運休でしょう。
奥千本まで歩いて行く道は左側です。

 
左に行くとまた分岐があり、今度は右に行きます。
奥駈道で見かけるものと同じ道標が立っています。

勝手神社あたりから斜度を増してきた道がいよいよ急になって花矢倉展望台まで続きます。
少し疲れてきました。

坂道を登って行くと大塔宮仰徳碑というのがあったので寄ってみることにした。
大塔宮は言うまでもなく護良親王のこと。
大塔宮は元弘3年(1333年)2月、父の後醍醐天皇が隠岐の島に流されている時に吉野で挙兵したが、
鎌倉軍に敗れて、村上義光の自己犠牲により高野山へ落ちのびた。
同年4月に後醍醐天皇が隠岐の島を脱出後、大塔宮は楠木正成らと共に戦って鎌倉幕府を滅ぼした(同年5月)。
いわば建武の中興の立役者でした。
しかし、足利尊氏をめぐる父の後醍醐天皇との確執から鎌倉に幽閉されることになり、
その後中先代の乱の混乱に乗じて尊氏の弟の直義によって殺害された(建武2年(1335年)7月)。
後醍醐天皇と足利尊氏との関係はその後の歴史が示す通りで、大塔宮が案じていた通りとなったのでした。
大塔宮の無念さがひしひしと伝わってきます。

さらに坂道を登って行ったが、少々疲れが出てきたので近くにあった社の前で休憩ししました。

道を挟んで社の向かい側に何か碑が立っていたので見てみると、
そこは”御幸の芝”と呼ばれる後醍醐天皇が休憩したところのようでした。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

 
やがて道はヘアピンカーブを繰り返すようになる。
途中で車道を離れてショートカットする道があったので、そちらを登って行きました。

その道の途中に、”横川の覚範の首塚”がありました。
静御前と別れた義経を豪僧横川の覚範というものが追いかけてきたのを、義経の家来の一人である佐藤忠信が
花矢倉から矢を浴びせて打ち取り、その首を埋めたところがこの塚と言われている。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

 
首塚で一休み(かなり疲れてきています)したあと、
階段の道を登り続けて花矢倉展望台にやってきました。午前8時50分でした。

  
展望台は広い広場になっています。

 
展望台からの眺め。
中千本あたりがよく見えます。遠くには金剛山や葛城山、二上山も。
桜や紅葉のころは一段と綺麗な眺めでしょうね。

 金峯山寺と吉野の町並みを望遠で。
ここは標高600mほどのところなので250mほど登ってきたことになります。

花矢倉展望台からから少し行くと第72靡の吉野分水(みくまり)神社です。午前9時。
創建年代は不詳ですが、もともとは吉野山の最奥部にある青根ヶ峰の頂きに鎮座していたらしい。
まさに水を配分する神様だったと言う訳です。
現在地へ遷座したのは大同元年(806年)頃のこと。

現存する社殿は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼により再建されました。

 
階段を上がり、楼門を潜って、回廊から順に参拝します。

 
桃山様式の三殿一棟造の社殿。

 
水分神社から車道を一登りしたところに丈之橋跡の石碑がありました。
吉野三橋の一つだそうです。下千本近くにあった大橋も三橋の一つです。あと一つはどこに?

 
高城山への分岐の近くに牛頭(ごづ)天王社跡の石碑がありました。
牛頭天王社は高城山ツツジヶ城の鎮守として創立されたと伝えられています。
威徳天神や勝手明神、子守明神などの吉野八社明神の一つだったが、明治初年の神仏分離により廃絶されました。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

奥駈道から離れてその高城山に登ります。

 
階段の道が続きます。

5分ほど登って午前9時25分に山頂の立派な休憩所に着きました。

展望台からは金剛山や葛城山がよく見えました。
今日は天気が良い分だけ暑さも厳しいです。無人の休憩所で一休みします。
疲れが出てきて休憩の回数が多くなってきました。この分では今日は青根ヶ峰までかな。

高城山から下って奥駈道(相変わらずコンクリート舗装の車道ですが)に合流し、
10分ほど登って行くと修行門に着きました。
山上ヶ岳までの間にある四基の門のうち、発心門に続く二番目の門です。
門を潜って金峯神社の参道を登って行きます。そこそこの斜度で疲れた体には厳しい。それに暑いです。

 
参道を登ること5分ほどで、午前10時に第71靡の金峯神社に着きました。
鳥居の前にはここまでタクシーで来た修験装束をした大勢の方がいました。これから奥駈道を歩かれるようでした。
”柳の渡し”からここまで、地元の住人と思われる方以外は人を見かけることはありませんでしたので、
奥駈道で初めて見かけた人たちでした。
人が多いので神社のお参りは後にして、先に義経の隠れ塔に行きます。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

 
鳥居の左に続く道を下って行くと義経の隠れ塔があります。
文治元年(1185年)11月、金峯山寺の僧兵の山狩りから逃れるために身を隠した塔と言われています。
現在の隠れ塔は大正元年(1912年)に再建されたもので、大峯修行場の一つだそうです。

 
金峯神社に戻ると行者さん達はいなくなり静けさが戻っていました。
神社に参拝してから右の道を進んで行きます。ようやく奥駈道らしくなってきました。

 
石畳みの道を緩く登って行くと分岐がありました。
右は西行庵方面、左は青根ヶ峰から山上ヶ岳へと続く奥駈道です。
まずは青根ヶ峰に向かいます。

 
分岐から少しで開けたところに出ました。第70靡の”愛染の宿”です。午前10時20分。
ここには平安時代の前期に創建された宝塔院安禅寺があり、元弘2年(1332年)には
護良親王が愛染宝塔を中心に吉野城の本営を置いたとのことです。
安禅寺は明治元年(1868年)の廃仏毀釈により廃されたが、
本堂の蔵王権現像や愛染明王像は金峯山寺に移されました。
(マウスポインターを画像に重ねると案内板が表示されます)

広場には東屋がありました。
冷たい風が吹き抜けてとても居心地の良いところでした。

 
”愛染の宿”から最終目的地とした青根ヶ峰に向かいます。
奥駈道らしくなってきました。

 
右手には名も知らぬ山々が見えます。

 
”愛染の宿”から5分ほどで分岐に着きました。
右は青根ヶ峰を巻いて行く奥駈道。左は青根ヶ峰を経由して行く道です。
ここには女人結界門があったそうですが、昭和45年に五番関に移されています。
また義経のころは結界門は金峯山寺にあったとのことです。
義経が静御前と別れなければならなかった所以かもしれません。
それでは青根ヶ峰に登ります。

 
青根ヶ峰までは標高差30mほどの階段の道が続きます。

 
午前10時40分に青根ヶ峰に着きました。吉野山の最高点です。
残念ですが今日はここまでとします。

 
貸し切りの山頂で腹ごしらえをしてしばらく休憩してから、
午前11時に下山を開始しました。

 
西行庵への分岐まで戻ってきました。
折角なので行ってみます。

 
結構急な道を下って西行庵に着きました。
たしか小学校の林間学舎で吉野に来た時に西行庵に来た記憶があるのだが、
こんなに険しい道だったのだろうか。それとも記憶違いなのだろうか。
(画像をクリックすると説明板が表示されます)

 
来た道を戻って行く途中で高城山の山腹に立っていた閼伽井不動明王。
高城山の登り分岐と下り分と岐の間にあるため往路では見られなかった。

 
奥千本行きのバス停まで戻って来た時に、偶然吉野三橋の残りの一つを見つけました。
 
道の傍らにあった石碑です。
天王橋という名のようでした。三橋を特定できてよかったです。

 
帰りは真昼間の道で太陽が頭上にあるため日影が少なく、歩いていて非常に暑かった。
長時間の歩行の疲れもあり熱中症の心配もあったが、幸いなことに吉野山駅からのケーブルが営業していたので
利用させてもらうことにした。料金は450円+230円(荷物代)と少々高いが背に腹は代えられませんでした。
ちょうど午後1時20分発の便に乗ることができました。

近鉄吉野駅に着きました。シーズンオフなのか駅は閑散としていました。
午後1時38分発の普通電車で大和上市まで戻り、灼熱の車に戻って帰途につきました。
途中、道の駅で着替えなどをしたあとは家までノンストップで、帰宅は午後4時前でした。
大峯奥駈道歩きと言うよりも吉野歴史探訪みたいなことになってしまいましたが、それはそれで有意義なものだったと思います。
次は青根ヶ峰から五番関だが、青根ヶ峰までどのようにしてアプローチするかが課題です。
なお、ここで記した人物や各寺社、史蹟の内容については私の思い違いもあるかも知れませんので、その時はご容赦ください。

四寸岩山・大天井ヶ岳につづく

コースタイム
往 六田駅(5:20)−柳の宿跡(5:55-6:00)−吉野神宮(6:20-6:35)−下千本駐車場(7:00-7:10)−金峯山寺(7:30-7:40)
  −花矢倉展望台(8:50-8:55)−高城山(9:25-9:40)−金峯神社(10:00-10:10)−青根ヶ峰(10:40-11:00)
復 青根ヶ峰(11:00)−西行庵(11:35)−金峯神社(11:55)−首塚(12:25-12:35)−金峯山寺(13:10)−吉野山駅(13:20)

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