烏山頭水庫 |
2017年(平成29年)12月1日(金) |
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【烏山頭ダム】 ホテルを出発して北門路二段を北に進み、小東路で右折して東に向かい国道1号(中山高速公路)に入ります。 その後国道8号(台南支線)を経て国道3号(フォルモサ高速公路)を走り、東西向快速公路に入ってすぐのICで縦貫公路(台1線)に降りました。 広い平野に縦横に張り巡らされた高速道路には相互を連結するジャンクションが随所にあり、日本よりも整備が進んでいる感じでした。 縦貫公路を2kmほど北に進んで右折したところから八田路が始まります。八田與一にちなんでつけられた名称です。 八田路を北に走って行くとやがて右に長大な烏山頭ダムが見えてきました。 |
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【烏山頭水庫の入口】 ほどなく車は烏山頭ダムの入口に着きました。時刻は午前9時30分。 ホテルから約45kmで、所要時間はおおよそ50分ほどでした。 ゲートで一人あたり100元を払いパンフレットを受け取ってそのままタクシーで中に入って行きました。 |
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【広い駐車場】 ゲートから少し行って右に曲がったところに広い駐車場があった。ここでトイレに行き少し休憩する。 |
【案内図】 トイレの前には案内図があった。この付近一帯は烏山頭水庫風景区として一部が公園化されています。第一の目的地の旧放水口はここからすぐのところのようです。(画像をクリックすると拡大されます) |
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【旧放水口】 駐車場から道なりに進んで行くと右手に旧放水口と八田技師紀念室がありました。 紀念室にはあとで寄ることにして、階段を下りてまず旧放水口に向かいます。 |
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【旧放水口の案内板】 旧放水口には映画”KANO”の撮影状況の写真が掲げてあった。 ダムが完成し放水する場面がここで撮影されました。 (その場面はここをクリック) |
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【操作室】 放水口を開閉するところです。映画でも使われていました。 |
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【当時の様子を偲ぶ人】 旧放水口に佇み、当時の様子を思い浮かべている人がいました。 |
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【旧放水路】 旧放水口から見た旧放水路です。 右の建物には”八田水力發電廠”と書かれています。建物は新しそうです。 |
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【旧放水口】 旧放水口から見えていた赤い橋まで行って旧放水口を正面から見ます。 (画像をクリックすると動画がご覧になれます。 なお、動画の最後の噴水は放水するときの水圧を調整するための設備だそうです) |
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【旧放水口を見つめる人】 橋の上に立って旧放水口を見つめる人がいました。 |
【旧放水路】 嘉南平野を潤している放水路です。1997年に別の場所に新放水口が完成したため、今は補助的なものとなっているようです。 |
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【八田技師紀念室】 旧放水口のすぐ横に八田技師紀念室があります。2001年完成でまだ新しいようです。 右のモニュメントには永遠の技師と書かれています。本当に技術者冥利に尽きますね。 |
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【紀念室の内部】 紀念室の内部には八田與一ゆかりの資料が沢山展示されていました。 開室にあたって日本から取り寄せたものなのかもしれません。 |
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【文書類】 郵便物や雑誌などが展示されています。左下に土木学会誌があったので帰ってからネットで検索して読みました。ページの最後に参考文献として挙げておきます。 |
【運命の写真】 左上は夫婦で撮った最後の写真。右上は葬儀の写真。そして左下は五島列島付近で沈没した大洋丸です。 |
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【殉工碑(慰霊碑)へ】 紀念室を出たのは午前10時過ぎ。次は殉工碑(慰霊碑)とダムに行きます。 |
【道標】 道なりに歩いて行くと道標がありました。殉工碑へは階段を登って行きます。 |
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【大木】 大木を見上げながら階段を登って行きます。 |
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【殉工碑(慰霊碑)】 階段を登って左に行くと木立に囲まれた殉工碑がありました。 工事で亡くなった方々の慰霊の塔です。 |
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【碑文】 殉工碑の基部には八田與一が記した碑文が刻まれています。 また、左右と後ろの部分には工事中に亡くなった方々の名前が民族の区別なく刻まれています。 |
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【ダムの上へ】 殉工碑の次はいよいよダムに登り珊瑚潭を眺めます。 |
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【珊瑚潭(1)】 烏山頭ダムの上から珊瑚潭。総貯水容量は1億5400万立米。 |
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【珊瑚潭(2)】 この付近は地形が入り組んでおり、ダム湖を俯瞰すると珊瑚の形に見えることから珊瑚潭と呼ばれている。 |
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【旧放水路方面】 旧放水路方面を振り返ります。中央付近に赤い橋が見える。 (カーソルを画面上に置くと拡大されます) |
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【嘉南平野】 広々とした嘉南平野。烏山頭ダムはこの広大な平原を一大穀倉地帯へと変えたのです。 台湾の方々が豊かになったのは言うまでもありませんが、統治国の日本もその恩恵を受けたのに違いありません。 |
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【ダム上の道】 ダム上には歩道があり、南の余水吐まで行けますが、時間を節約するため下に降りてタクシーで向かいます。 |
【天壇公園の駐車場】 南洋桜の並木道を走って天壇公園の駐車場に来ました。前方の吊橋まで行きます。 |
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【珊瑚橋】 吊橋は歩道橋で、珊瑚橋と書かれていました。 定員は10人のようです。 |
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【余水吐】 吊橋の中ほどまで行って左手の余水吐を確認します。 今は満水までに余裕があるのか、放流はしていないようです。 (カーソルを画面上に置くと拡大されます) |
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【余水吐の下流側】 放流された水が流れて行く水路です。 |
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【臥提迎暉】 吊橋からタクシーで少し行くと売店がありました。少し疲れたのと暑かったので冷たいものを買って一休み。 遊覧船もあるようで運転手さんから勧められましたが、時間の関係でパスしました。 それから歩いてダムの南端にある”臥提迎暉”と書かれた石碑のある所まで行きました。 臥提迎暉の意味はよくわかりません。”ダム提に寝そべって光(朝?夕?)を迎える”ということでしょうか。 |
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【烏山頭ダムと珊瑚潭(1)】 南側からは順光となるので全貌がよくわかります。 (画像をクリックすると動画がご覧になれます) |
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【烏山頭ダムと珊瑚潭(2)】 そういえば、大阪の南に狭山池というのがあるが、 スケールこそ違えその目的はここと同じだろう。 |
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【八田與一の銅像】 ”臥提迎暉”の石碑から来た道を戻って八田與一の銅像まで来ました。 まわりには観光客などはいませんでしたが、驚いたことに銅像の前には多くの花束が置かれていました。 どのような人が捧げて行ったのか分かりませんが、八田與一が今なお人々から慕われ尊敬されていることを確信しました。 |
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【八田夫妻のお墓】 銅像の後には八田夫妻のお墓がありました。ここにも菊の花が捧げられていました。 1942年5月8日、八田與一は大洋丸で内地からフィリッピンに向かう途中、アメリカ潜水艦の攻撃により非業の死を遂げました。享年56歳。 残された妻外代樹は、終戦直後の1945年9月1日に夫の後を追って放水口に身投げします。享年45歳。 奇しくもその日は25年前に烏山頭ダムの工事を始めた日でした。 二人の間には二男六女があり、この時点では末っ子は14歳で、戦場に行っていた息子が復員して来たところだったようです。 合掌 |
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【八田與一紀念公園】 烏山頭ダムを見て回った後、タクシーで八田與一紀念公園まで来ました。 ここは烏山頭ダムのチケットを持っていれば無料で入ることができます。 2011年5月8日、八田與一の命日に公開されたとのことです。 まだ工事中の部分が多く、全体が完成するのはもう少し先のようです。 |
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【田中・市川宅】 公園内には4軒の家屋が復元されており、週ごとに1軒ずつ公開されている。この週は第1週ということで1番目の田中・市川宅でした。 |
【家の中】 靴を脱いで家に上がり見学しました。 |
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【八田宅】 その隣は八田宅です。家の中には入れませんが庭には入ることができます。門の説明図を見ると復元前の状況がよくわかります。 (画像をクリックすると拡大されます) |
【八田宅の玄関】 八田宅の玄関です。奥の洋式の建物は書斎とのことです。 |
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【八田宅全景】 庭も広くなかなか立派な家です。 |
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【八田外代樹の銅像】 2013年9月1日の命日に除幕式が行われた。抱いているのは四女とのことです。 幼い子供を抱いてどこを、何を見つめているのでしょうか。 なお、八田夫妻の出身地は石川県です。 |
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【八田宅の庭】 広くてきれいですが、昔の日本式の庭とはちょっと雰囲気が違っています。 |
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【裏庭】 台湾島の形をした池は当時もあったようです。 |
【家の中】 窓から覗いて撮りました。 八田夫妻が亡くなってから70年以上もたつ今日もなお、このような形で記憶にとどめようとされる台湾の方々には本当に頭が下がります。短時間でしたが有意義な訪問でした。 見学が終わってからタクシーに戻り11時40分ごろに台南に向かいました。 |
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【参考文献】 1) 土木学会誌、2002年5月、”技師八田與一と烏山頭ダムのこと” 2) 土木学会誌、2003年1月、”嘉南大圳に花開いた八田與一の夢” 3) 土木学会誌、2003年1月、”中島力男さんに聞く八田與一の魅力” 4) 土木学会誌、2005年10月、”後世への最大遺物-八田與一の贈ったもの-” 5) 土木学会誌、2009年7月、”八田與一の墓前祭と馬総統” 6) 土木学会誌、2011年2月、”烏山頭水庫-海を越え、継承する歴史遺産-” |
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